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農村部へのインフラ整備計画

中国では先に始まった「南水北調計画」(南部の豊富な水資源を北部の乾燥地帯に供給する)が難航しているという現状がある。そのため、海抜差一〇〇〇メートルを超すエリアに水を押し上げる手段や海水の淡水化コスト、さらには生態系への影響や周辺住民の立ち退き問題などについて多くの疑問と非難の声が上がり、物議をかもしている。プロジェクトの始動から一〇年。賛否両論はありつつも、西部大開発に投資された資金の総額は、すでに二兆二〇〇〇億元(二八二兆円)を上回ったと言われている。中国社会科学院社科文献出版社、西北大学、内モンゴル大学が二〇一〇年七月に発表した「東方網」の報道では、「西部地域白書 中国西部経済発展報告2010」によれば、西部地区の経済成長率の伸び率は八年連続で一〇%を超えたという。

目覚ましい成長を遂げつつも、西部地区内のGDPが全国に占める割合は一八・五%にとどまり、五〇%以上を占める東部地区にはまだまだ及ばない。しかし、中央政府は引き続き西部地区の開発に力を入れることを表明している。次の一〇年で、西部地区はどのような発展を遂げるのか。非常に気になるところである。改革開放を推進した郵小平は、一九八五年頃から「先富論」を唱えはじめた。触れたように「先富論」とは、わかりやすく言えば「先に豊かになれる者から豊かになろう」という意味だ。この方針に倣い、政府は東部沿海地区の成長を優先させる。その結果、西部・内陸部は経済発展から取り残され、中国は「東西問題」と呼ばれる国内格差問題を抱えることになったのである。

西部や内陸部の貧しい農村部の発展は、政府の新たなる課題となった。そのため政府は「西部大開発」(前項参照)などの大規模な国家プロジェクトを通じて、西部・内陸部の発展に力を注いでいる。こうした国家主導の発展戦略には、農村部へのインフラ整備計画が多数含まれている。一九九〇年代後半にスタートしたプロジェクト「村村通」もその一つ。「すべての行政村に道路、電気、電話回線を開通する」ことを目指す、巨大プロジェクトであった。結論から言うと、この「村村通」政策は、農村の発展に大きく貢献したと言えるだろう。スタートからおよそ一〇年を経た二〇〇七年末には、道路の各郷鎮(末端行政区)への開通率は九八・五四%、行政村開通率は八八・一五%に到達。道路の総延長は四二万三〇○○キロにおよび、そのうち高速道路は五万八六〇〇キロを占めているという。

電気においては、すでに通電率が九九%に達しており、全国的にほぼ「戸戸通電」(すべての世帯に電力供給を実現する計画)が達成されたと言える。電話の普及率は行政村で九九%に達し、インターネットの普及率も全郷鎮の九七%に及び、ほぼ中国全土でアクセスが可能になっている(サーチナ「世界経済同時危機を中国が乗り切れる十の理由」二〇〇九年三月一八日)。一方、インフラ整備と並行して推進されてきたのが、二〇〇五年に発足した「万村千郷市場プロジェクト」だ。農村住民のニーズに合わせた生活必需品を販売するスーパーやコンビニエンスストアなどのチェーンストアを二五万店配置し、近代的な市場システムの確立を目指している。こうして農村地域の消費基盤が整ってくると、政府は次の一手として「家電下郷」「汽車下郷」政策をスタートさせる。これは農村部に家電および自動車(汽車)を普及させることを目的としたプロジェクトだ。ちなみに「下郷」は文化大革命時代に生まれた言葉だ。都市部の青年層を地方の農村に送り出し(下放)、肉体労働に従事させる「上山下郷政策」に由来しているという。

「家電下郷」は二〇〇七年から試験的に導入され、○九年二月から全国的に拡大した。農民は、テレビや冷蔵庫、洗濯機、パソコン、クーフーなど指定された「下郷」家電製品を購入する際に、価格の一三%に当たる補助金を受けることができる。ただし、製品の価格にはそれぞれ上限が設定されている。また、対象となる製品はほとんどが国産メーカーのものに限定されている。中国商務部によると、二〇一〇年に「家電下郷」政策によって販売された家電製品は合計七七一八万台。売上高は一七三二億三〇〇〇万元(約二こ一五兆円)を記録したという。これは前年同期比の一・七倍であり、家電下郷の効果の大きさがうかがえる。

感無量の宴席

工事担当者として大阪電灯会社に勤務していたころ、幸之助は、大阪鰻谷にあった、日本を代表する大富豪、住友吉左衛門の本邸の前をよく通った。これが住友はんの屋敷かいな、ゴッツイもんやな。世の中にはこんな家もあるんやなときに、門からそっと中をのぞきながら思うのだった。それから、二十数年がたった昭和十四年、ある程度の成功をおさめた幸之助は兵庫県西宮に新居を構えた。ところが、偶然にもその隣は住友本社の総理事の屋敷だった。幸之助が引っ越しの挨拶に出向くと総理事は言づた。

「立派な新居ができて結構ですな。松下さんは、単に隣近所というだけやなしに、非常なご成功者で、しかも住友銀行一本で経営を進めておられることに対し、われわれは常に敬意を表しておりました。かねがね一度親しくお目にかかってご挨拶を申しあげねばならないと思っておりました」このことがきっかけとなって、幸之助夫妻は住友からの招待を受けることになった。その宴席の場所がなんと鰻谷の住友邸だったのである。そのころ、鰻谷はすでに住友別邸になってはいたが、その屋敷のたたずまいは昔と変わってはいなかった。長い廊下を案内されて、奥座敷の正面の席に座ると、総理事をはじめ、常務理事、住友銀行頭取などの幹部がずらりと並んで挨拶をする。そして総理事が言った。

「松下さん、今あなたがお座りになっている席は、正月に当主の吉左衛門が座り、住友関係の一等職員に限って年賀を受けるところなんですよ。この邸でお客さんをもてなすのは、大臣や、特別の方だけです。松下さん、どうかゆっくりおくつろぎください」そのうちに、豪華な料理が運ばれ、芸者衆が舞い始めた。幸之助は二十数年前の思いを胸に、感無量の宴を楽しんだのである。昭和二十一年六月、松下家は財閥家族の指定を受け、資産が凍結された。幸之助自身の財産であるにもかかわらず、GHQの許可なしには勝手に資産にふれることができない。そればかりでなく、財閥家族に指定されると会社をやめなくてはならない。実際、幸之助同様、指定を受けた十三社の社長はみな辞職してしまった。しかし、幸之助はやめなかった。その指定は不当だと確信していたからである。

自分は財閥ではない。確かに松下電器を書類の上で見ると、子会社がずらりと並んでいる。そのなかには造船会社もあれば飛行機会社もあり、一見財閥のように見える。しかもその実情は船も飛行機も軍の命令を受けて木でつくったものにすぎない。しかも飛行機などは三機飛んだだけである。しかし書類上ではそういう実情がわからないから、これは立派な財閥だとGHQは判断したのだろう。だからこれは誤った指定である。こういう誤った指定でも従わなければならないのだろうか。これでは、人を殺したこともないのに人殺しとして死刑の判決を受けたようなものではないか。そう考えた幸之助は、GHQに対して誤った指定取消しの抗議をしようと決意した。

しかし、幸之助が抗議をしたからといって簡単に指定が解除されることはなかった。また幸之助のほうも、そう容易にはあきらめない。くり返しくり返しGHQに足を運んで抗議を続けた。その過程では、資産が凍結され、家事手伝いの女性に給料を払うのもGHQの許可をもらうというような状態であった。だから、生活はドン底に陥り、自宅の冷蔵庫の中にはサツマイモのツルしか入っていなかったこともあった。しかたなく幸之助は親しい友人に日々の生活費を借りてまわらねばならなかった。しかし、それでも幸之助はあきらめなかった。超満員の不便な列車に乗って大阪から東京まで出向いて抗議すること五十数回、五千ページにものぼる資料を提供して、財閥ではないという証明をし続けた努力が実り、昭和二十四年十二月、幸之助はようやく財閥家族の指定を解除されたのである。

現地人を重要なポストにつけることが現地化ではない

日本人が日本でもそのような経営をしたこともないのに、外国に来て能力主義だ、現地化だと評論家やどこかの会社の地位の高い人や有名人が成功例として紹介する方策を無批判に飛びつき実行する会社がある。現地人を重要なポストにつけることが現地化ではない。日本以外の外国に工場を作るとか、会社を作るとかまたは外国人を雇うことがグローバル化でないのと同じである。問題は中身である。物事は形式化から入るということもあるが、一般には形式が出来るとその形式で満足してしまうケースが非常に多い。形式に従っている方が楽であり、批判を受け難い。社長あるいは地位の上の人とか有名人が言うとその言葉は、神の神聖なるお告げになる。暗黙知から形式知と言われて久しいが、形式知にすれば何でも一丁上がりの気持ちになる。規定化しろと指示があれば規定化することで満足してしまい、実際に規定どおり行われるか否かは別の問題。規定が長く細かくなればなるほど専門の担当がいないと六法全書のように素人では意味の解釈が出来なくなる。

また、長すぎて忙しい現場には読まれなくなる。その「心」を理解すること、理解させることが大事なのであるが「心」は意識して言わないと誰も言わなくなる。そしてトップの言うことには逆らわなくなる。たとえトップの言うことと中身の理解を間違えたとしてもトップの指示としてそのまま、方針が推し進められる。これに関しては大会社でも触れた。これと同じように、現地化の趣旨を間違えるととんでもないことになる。日本のトップが日本人や現地人の前で「現地の会社では現地人を活用せよ」と言うのを、何でも現地人を中心に活動せよと言われたと解釈して、現地人の能力の見方を間違えて不相応の地位を最初から与えると現地人は神のお告げを聞いた気持ちになり、自分の思うとおりに現地の習慣に基づいて業務を行ってしまう。

日本人も神のお告げの前にはなすすべを知らず、現地人に任せっきりになる。現地化という前に会社の方針、利益、現金の流動性などを具体的に示し、理解をしてもらってから、現地化するというのであれば大きな問題にならない。勿論、最初にきちんと方針を示し、人の言うことではなく、自分の目で本人を確認して、トップの意図をどれだけ理解したかを確認したうえで現地人をそれなりの地位に置くことは良いことである。その確認の過程を惜しんではならない。これは、前著でも日本人の駐在を派遣する時に、派遣される方とで十分討論し、お互いが納得してから派遣すべきと述べたが、現地人に対しても同じことが言える。これを間違えている顧客がいて、その顧客の幹部は、現地のことは現地の人で、と言う日本側のトップの理念をそのまま吟味もせず実行に移し、中国社会のことは中国人しか分らないということで、現地人の言うことをただ鵜呑みにして会社経営をしていう。

売掛金も回収できず、資金繰りと在庫の関係も無視して無頓着に業務が進み、最終的には資金繰りはめちゃくちゃ、発注と注文の商品の食い違いが至る所に生じる。仕掛品はいたずらにたまり、使途不明金は出るし、挙句の果てに資金が不足し、給料を遅配した結果、逆に現地社員からその会社が見放された例がある。この実例では本来の会社の方針、やり方に戻すのに相当苦労したようである。古いニュース、古い本を読む古い記事や古い本を日本から持ってきて読み直している。新刊がでるとその本を購入することもあるが、どちらかと言うと数年前に購入した本を日本から持ってきて読み直すことが多い。その理由として、読みながら当時の状況を思い浮かべ、当時、私か何を考え、何をしていたか、そしてそれが現在どうなったかを考えながら読むことが今後の自分の考え方に大きな影響を与えるからだ。

タイムリーにニュースを読むこと、見ることはそれはそれで役に立つが、その時々の現象面にとらわれて時間が私の上を通り過ぎてゆくだけのような気持ちになる。また、何かニュースを追っかけることで自分が時代を知った錯覚をしているのに過ぎないのではないか、更にはそのニュースを追っかけること自体が目的化しているのではないかという不安を感じる。私は古い本を読むのが好きだ。少々意地悪だが、特に新しいことやセンセーショナルなことを言っている評論家や学者の本や、売れている経済やビジネス関係の本を書いている人の古い本だ。それは単なる意地悪だけではなく、私自身の反省とその時代に私自身が何を考えて何をしようとしていたかを改めて考えてみる為だ。特に中国関係は変化が早いので、その軌跡を知る為にまた、今後を自分なりに検討して見る為に。

国民の保険料負担能力

たいていの国はこの二つの極を結んだ直線のどこかに位置している。いわゆる公的な健康保険制度を持って、基本的なところは公的保険でカバーしつつ、それプラスの部分は任意保険や自由診療のアドオンがあるというのが、平均的な収斂のしかたである。私自身も標準的な医療サービスについて、すべての国民を公的な医療保険でカバーする我が国の皆保険の仕組みは正しいと考えている。問題はその「標準的な医療サービス」のレベルをどう定義するか。絶対的な真理がないから、みんなどこかで妥協するしかない。任意保険というのは、基本的には自己選択の世界である。一方、公的医療保険は、ナショナルーミニマムを保障するという思想から出てきているので、ここでは「どこまでカバーすべきか」という問題に必ずぶち当たってしまうのだ。

もしすべて無料にしたとしても、国民の保険料負担能力にも、財政にも限界があるので、やはり「どこまでカバーすべきか」という問いからは逃れられない。結局、医療にコストがかかる以上、公的医療保険制度というものは、多かれ少なかれ公共政策としての命の値段の問題は避けて通れないのである。「命はお金では買えない」と口では言っても、「命を救うためなら金額に上限はない」と本気で思っている人はいない。だから、「保険でどこまでカバーするのか」、落としどころを探らなければいけない。二〇一一年の秋、TPPに関連してクローズアップされた混合診療の問題は、そうした議論の糸口となり得るかもしれない。

混合診療というのは、保険が利く「保険診療」と、保険が利かない「自由診療」を併用することだが、これまで日本では認められていなかった。ある患者が一般的な治療に加えて、保険が利かない新しい治療法を試そうとしたとしよう。その場合、日本では混合診療が禁止されているために、通常なら保険が利く部分についても、全額自己負担となる。それだけ金銭的なハードルが高くなるので、よほどお金に余裕がある人でなければ、そうした治療を試すことすらできないのが現状だ。「それはおかしい、混合診療を認めるべきだ」という方向に行くのか。それとも、混合診療は一切認めず、一方で保険でカバーできる領域を広げていくのか。あるいは、尊厳死を認めて、必要以上に医療費がかかることに歯止めをかけるのか。

その時々のリーダーが選択肢を提示して、国民的なコンセンサスをつくっていくしかないだろう。本来、もっと個人的なレベルで言えば、ある治療を受けるかどうかは、自分の健康、自分の命の問題である以上、究極的には本人の選択に依拠すべき問題である。いざというときに延命治療をするかどうか、するにしてもどこまでの治療を望むのかについても、もっと自己決定権があっていいのではないか。そこで、たとえば七五歳以上の後期高齢者の延命治療について、この選択を事前に意思表示させておくだけでも、自己選択の契機が生まれるだけでなく、医療費削減にもつながる可能性が高い。

加えて、その選択によって保険料負担も変えたらどうだろう。人間の生涯医療費の大半は人生最後の一年間、すなわち延命治療を含む終末期医療に使われるそうだから、延命治療拒否者については多少、保険料を割り引いても(先述のように消費税を社会保障税として使う場合は、割引分を還付する)十分な医療費削減効果があるはずだ。あるいはもっと大胆に、混合診療を認めたうえで、一定以上の延命治療はすべてその中の自由診療分にしてしまう手もある。いずれにせよ、こうやって浮いた公的な医療費の一部は、産科や小児科医療の充実、すなわち未来を担う世代の医療の強化に回せばいい。

農場の働き手が足りない

周りには、庭にキュウリやトマト、ジャガイモが植えられ、向日葵が咲き誇るダーチャがっづいている。トタン屋根で全体が傾いていたり、粗末な材木で作られた家屋が多く、ロシアの庶民の典型的なダーチャ村と言えよう。庭先に出ていたダーチャの女主人は、私の質問に、「プーチンが領土を中国に売ったんだ。けしからん。この島に中国人がやってくるなんて、我慢ならない」と手に持ったバケツを振り回した。だが、冷静に見ていこうという人が案外に多い。菜園の手入れをしていた隣人のリーリャ・ヤコブレブナさんは「この島の半分を中国に引き渡すのに、もちろん賛成ではない。でも、今はあきらめる以外にないわね。中国に半分譲ったとしても、それはこの地域ではなくて、西側半分だし、私たちの生活は変わらない。それに、中国人も昔とは違うから、あまり不安はない。

ここは中国とは目と鼻の先だから、中国と仲良くすることは悪いことではない」と、淡々と話す。他の人は「どうってことないよ」とか「外国人に話したくない」などと口数が少なかった。○四年一〇月、この島の半分が中国に引き渡される、と突然聞かされたときには、住民みんなが驚き、怒ったが、今は冷静に考えている人が多いという。なかには「中国人がこの島にお金を使って、暮らしやすい村にしてくれたらいいのに」という声さえある、とのことだ。このチョムカ村を過ぎて、でこぼこ道をさらに西に進むと、旧ソフホーズ(国営農場)「ザリャー(夜明け)」の農場、畜舎などの建物、放牧されている数百頭の牛が見えてくる。のどかな光景だ。島の人によると、この島の土地は肥沃で、面積の七〇%は耕作、放牧、草刈に適している。

「ザリャー」農場は年間四〇〇〇トンのジャガイモ、年間一七〇〇トンの牛乳などを生産しており、ハバロフスク市民への食料供給地の一つである。数百人が働いている。この農場の大部分は島が折半されてもロシア側に残る地域だが、草刈り場などの一部は中国側になる。不在だったため会えなかったが、レオニード・ドゥホフ農場長はロシアの新聞でこう語っている。「この島に中国人がやって来ると、彼らはお決まりのガラクタ市場を開くだろう。この(中国側に引き渡される)土地は、われわれの放牧用の草刈り場なんだ。これが使えなくなると、数百万ルーブルの損失になる」、「(中国側との協力については)まだ煮詰まっていない。中国人とは慎重にやるべきだ。われわれが彼らを指図すべきであって、彼らがわれわれを、ではない。

農場を中国人に売るつもりはない。でも、来年には中国人労働者を雇用することになるだろう。農場の働き手が足りないからね」(「コムソモーリスカヤープラウダ」○五年五月二〇日付)。この島には、ハバロフスクの企業のレジャー・キャンプも数力所ある。近年まで中国との緊張がつづき島の帰属が問題となっていたために、島はほとんど開発されてこなかった。このため島の針葉樹林には貴重な野鳥や水鳥が生息し、アムール川の支流や湿原地帯の湖沼にはアオウオ、ケッギョなどの希少魚類がいるし、サケも回遊している。手つかずの自然に富んでいるため、このキャンプ地は人気があるという。

島の中央部の南側には、ハバロフスクの郊外から浮橋が架かっている。トラックなどの車両が通行可能なしっかりした浮橋で、ハバロフスクと島を直接結ぶ通行路になっている。中ソ対立の時代には軍用通路として活用されたという。夜間には船舶航行のために浮橋の一部は撤去される。この辺りから中国国境に近い西側はロシアの国境警備隊が管理しており、つい最近までは一般市民は近づけなかった。国境警備隊は島の西側に集中していて、この島がかつては対中国最前線の場であったことをしのぼせる。以前はこの周辺は軍事的緊張でピリピリしていたが、今は家族を含めて数百人が駐屯しているだけで「兵隊さんは手持ちぶさたで、ぶらぶらしている」(ハバロフスク市民)とのことだった。

通信イノベーションの歴史と電力産業の未来

CVCCエンジンを開発したホンダと、ウォークマンを生んだソニーは、明らかに「メイド・イン・ジャパン」のブランドイメージを一変させた二大功労者だ。米国における自動車の存在は資本主義の象徴だから、そこで大イノベーションを生み出したことは、その後の日本経済の成長にものすごく貢献したのは間違いない。そして現在、日本の状況は当時とよく似ている。原発が止まって、電力不足の解消が待つたなしの喫緊の課題だ。エネルギーをこれまで以上に上手につくって、上手に使うという産業イノベーションにドライブがかかっているから、その中で、素材やシステム、機器など、さまざまな新製品が生まれるチャンスがある。

米国が通信市場を開放していった一九七〇年代以降の状況と、いまのエネルギー産業の状況は、さまざまな意味で非常に近似している。一九七〇年代に始まり、八〇年代に加速した通信の自由化が、やがて九〇年代のIT革命につながり、二〇〇〇年代にグーグルやアップルが世界を席巻していくような状況をもたらした。そして今後、通信の世界と同じように、電力の自由化がさまざまな領域でイノベーションを巻き起こす可能性が高まっているのだ。

電力では通信から約二〇年遅れの一九九〇年代に、世界各国でさまざまな自由化の試みが始まった。そしていくっかの重大な失敗や試行錯誤を乗り越えつつ、現在、次のステージに移る重要な時期を迎えつつある。詳細はあとで述べるが、通信で言えば九〇年代の初めに相当する段階に入りつつあるのだ。そのタイミングで、日本もまさに、いま同じスタートラインに立てる可能性が出てきたのである。通信産業の花形は、かつては固定電話だった。巨大な電話会社の交換機が頂点にあって、一社独占の垂直統合モデルが当たり前だった。米国ではAT&T、英国ではブリティッシュこアレコム、日本ではNTT(当時の日本電信電話公社)が垂直統合かつ独占している産業構造で、全国をつなぐ電話網を頂点に、大型の交換機がシステムをコントロールすることで、輔輸(混線してつながりにくくなること)を起こさずに、安定供給を実現していた。

その体制でグラハムーベルの時代から一〇〇年近くやってきたのだ。ちなみに電力供給については、我が国は現在も基本的に当時の通信と同様の体制である。ところが、一九七〇年代になって、「一社独占はけしからん。長距離電話とローカル電話を分け、少なくとも長距離のほうに新規参入を認めよう」という流れが出てきた。直接、ユーザーの電話番号を管理、コントロールしているローカル電話は、デリケートな部分だから地域独占を認める。その代わり、長距離電話を自由化するという動きが米国で本格化したのが一九八〇年代前半。一九八〇年代の後半には、日本でも電電公社が民営化され、第二電電(DDI)や日本テレコムなどが長距離電話事業に参入した。

ただその段階では、我々ユーザーにとっては、それほど劇的な変化が起きたわけではなかった。電話は相変わらず固定電話だし、長距離電話料金が少し安くなった程度の話だった。しかし、重要な変化が水面下で起きていた。それまでガチガチの垂直統合だったものを、まず長距離とローカルに分け、さらには川下側でもさまざまな企業-日本で言うかつての「第二種通信事業者」のような設備を持たずに電話サービスを提供する企業が参入できるように自由化して、水平分業型の産業構造へ大きく転換していったのだ。

共産主義の突然の崩壊

一九七〇年代にはいって二回のオイル・ショックを経験し、共産中国か思っていたほど憎悪すべき存在ではない(盟友とまではいかないが、少なくとも敵ではない)ことがわかって、アメリカの警戒心は一時ソ連から遠のいた。だが、一九七〇年代のソ連の軍事力増強(はたしてこれが事実であったのか、疑問視する声もある)、イランにおける屈辱的な人質事件、ソ連のアフガニスタン侵攻などか重なって、ソ連はふたたびさらに強大でさらに凶暴なクマとなってアメリカ国民の意識の前に立ちはだかった。

森の中に凶悪なクマの姿を見た前半にアメリカの軍事費を倍増した。凶暴なクマとその悪の帝国を封じ込めるにはハイテクのスター・ウォーズ計画がぜひとも必要だ、と国民に訴えた。ところが、ある日突然クマは姿を消した。ベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは統一され、東欧の旧共産圏諸国には民生王義政治と資本主義経済のうねりか訪れ、ソ連の赤軍は東方へしりぞき、ワルシャワ条約は廃棄され、ソ連は崩壊し、共産主義は生地ヨーロッパで終焉を迎えた。民主政治と資本首義が独裁と共産主義に勝ったのだ。

七七〇年前にチッギス・ハンがヨーロッパ征服の戦いを突然中止して退却したのと同様に、共産主義の突然の後退にも不思議な点が多い。ソ連の経済力を過大評価していた一九五〇年代の西側の見方がまちかっていたことははっきりしているが、それにしてもClA(アメリカ中央情報局)の情報が信頼できるとすれば、一九七〇年代から一九八〇年代はしめにかけてのソ連経済は一応きちんと機能していたはずなのだ。ゴルバチョフが大統領に就任した当時にClAが持っていた情報によれば、ソ連経済は一九七五年から八五年にかけて年率二・一パーセント(同期のアメリカの成長率一・九パーセントより少し低い)の成長を達成しており、急激な改革を必要とする事情は何もなかったはずだ。

一九八〇年代なかばには、ソ連経済はますます好調だった。一九八三年には三・三パーセントの成長を記録し、一九八六年には四・一パーセントだった。連邦の崩壊を予測させる要素はひとつも見当らなかった。崩壊どころか、アメリカではレーガン大統領かソ連の脅威に対抗するためにぜひともスター・ウォーズ計画の実現が必要だと声高に訴えていた時期だ。ソ連の経済がおかしくなったのは、ゴルバチョフ政権になってからだ。ソ連国内でゴルバチョフが不人気なのも当然と言えば当然だろう。

ソ連国内での大衆向け消費財の不足を見ると、いずれソ連の共産主義が行き詰まる日がやってきたであろうことは疑う余地がない。だか、維持しようという意思さえあれば、ソ連の体制はまだあと何年かは維持できたはずだ。チンギスーハンはあと少しでヨーロッパを征服できるという時点でくるりと方向転換して中央アジアの草原に姿を消した。共産主義の突然の崩壊も、チンキス・ハンの退却に劣らず不思議だらけだ。

資産金融型証券のディスクロージャー

責任は無過失責任ですが、原告(証券取得者) の側で損害額を立証しなければならないので、その追及は難しいといわれています。届出書の情報を熟慮する期問が確保されても、届出書の情報と毀なる情報で勧誘が行われ、その結果、投資決定が行われるのでは、やはり法の口的は達成できません。そこで法は、届出書の情報を基にした目論見書を発行者に作成させ(B条1項)、勧誘はできるだけ目論見書を用いて行うよう什向けています。目論見書以外の販売用資料を使って勧誘することもできますが、虚偽または誤解を生じさせる表示をしてはなりません(13条5項)。

目論見書は、契約締結と同時かそれ以前に投資家に交付しなければなりません(15条2頂)。目論見書は届出書の情報によって投資決定がなされるようにするための制度ですから、本来は、契約締結よりも前に目論見書を交付することが望まれます。目論見書の交付は、あらかじめ承諾した投資家に対し、Eメールの送信やウェブサイトへの掲示により行うこともできます。目論見書を交付せずに証券を売り付けた者も、取得者に対して無過失の損害賠償責任を負担します(16条)。この場合、取得者側で、もし目論見書の交付を受けていたら証券を取得しなかったであろうことを立証しなければなりませんが、目論見書にはリスク情報のように投資意欲を削ぐような情報も記載されていますので、この立証はそれほど難しくないでしょう。

資産金融型証券の範囲およびディスクロージャーの内容について、具体的には政令および内閣府令で定めていますが(令2条の13、特定有価証券開示府会、そこでは、裏づけとなる資産の内容に関する情報や運用者・運用サービスの内容に関する情報が投資家の投資判断にとって重要になるため、そのような実態に応じた開示内容を定めています。たとえば、いわゆるファンド・オブ・ファンズについては、投資先ファンドの名称、運用の基本方針、主要な投資対象等の記載を求め、不動産に投資を行う有価証券について、不動産の構造・現況、第三者による調査結果の概要の記載を求めています。

世界的な金融危機を招いたアメリカのサブプライムーローンの証券化商品も資産金融型証券でした。サブプライムーローンの証券化商品とは、低所得者向けの住宅ローン債権のプールを取得した投資銀行が、これを債務不履行のリスクによって複数のクラスに分類し、それぞれのクラスの証券を裏づけとする証券を特別目的会社が発行するものであり(このプロセスを数回繰り返すこともある)、住宅ローン債権またはその証券化商品のキャッシュフローを裏づけとして発行されていました。証券化商品を購入していたのは金融機関や機関投資家などのプロ投資家でしたが、証券化のプロセスが複雑であったため、投資家が証券化商品の裏づけとなる資産の情報を十分に把握できず、格付に依存したために、投資判断を誤ったといわれています。

そこで各国では、格付業者の規制を導入するとともに、証券化商品の開示をどのように行わせるかを検討しています。わが国では、証券化商品は私募の形式で販売されることが多いので、法定開示制度の見直しは行わず、監督指針と自主規制により対応しました。すなわち、日本証券業協会の「証券化商品の販売等に関する規則」によると、証券化商品の販売を行う証券会社は、販売に先立って原資産の内容やリスクに関する情報を収集し、販売時にこれらを顧客に伝達し、販売後は、顧客の要望があれば、その時点での情報を収集して伝達すべきものとしています。

あなたが言っているほど中国人はひどくない

本当にユーザーは安ければよいのであろうか。安いことは勿論悪いことでなかろうが、大事なことは本当にユーザーが求めているのが何か、それが分かっていないのであろう。場合によってはユーザー自身も気が付いていないことがあるのではないか。もっとそれを追求してみる必要があるのではないか。コストが安い国への移動は、言葉を変えれば発展していない国への移動である。その国が発展してくれば必然的にコストが上がる。資本主義社会においては、コストは絶対的なものであるが、他に目指すものはないのであろうか。今、日本はアジアでそれを求められているのではなかろうか。もたもたしていると、中国の成長と共に日本は言葉で中国を批判している間に中国に抜かれてしまうのではないか。

繰り返すが、中国は、まだまだ紆余曲折を経ながら従来のような速度でなくとも確実に発展してゆくだろう。そして中国に経済的に関与できる余地は日本には数多く残されている。これをアメリカや他の国に出し抜かれないようにすることだ。これが中国経済の発展と共に日本が日本の力を維持しながら生き延びてゆく一つの方法でないかと考える。私は、その意味で、元気でいる間は何処にいても中国に関与していたいと思う。最後の項目である。中国と日本では文化の違いがある。文化の違いは日本国内でも地域によって違いがある。中国に限らず世界のどこの地域、国と比較してもそれぞれ異なる。私のここで言いたいことは文化の違いはどこから来るのかを検証することではない。文化の違いがあることを前提として全てを論じている。既に読者は知っている。私が中国で仕事をしながら、この本を書いていることを。従って、内容は仕事を中心としてその現場で起こっていることを通して中国を見ていることを。

そして本書の中では、中国とは「~である」と断定はしていないが、「~が起こる」ということを絶えず書いている。そのとき如何にしてその場を乗り切るかということは直接的には書いていない。しかし気をつけなければいけないことを書いてきた。中国の歴史観まがいのことも触れてきた。しかし、それは中国の歴史を勉強する為ではない。全ては業務を遂行する中で知っていたほうが良いと思うからである。知った上で如何にするかである。様々な現象を書いてきたが読者に「やはり中国は~」を伝える為ではない。中国で仕事をする上で、私たち日本といろいろな面で違いがあることは当然のことであることを理解することがまず一番重要であるからいろいろな事象を紹介してきたのである。この違いは中国と日本で永久に一致することは無い。しかし、その精神的距離を相手の文化を知ることによりちじめることはある程度可能と信じている。

それは、相手が本当に私たちの言うことを理解したか様々な事象を捉え、相手に繰り返し、繰り返し説明することである。私は相手が反論してくるようになれば「しめた」ということである。黙って当方の言うことを聞いている状態は良くない。中国では仲が良くなって初めて喧嘩もし、言い合いもする。喧嘩も言い合いもしない関係は本当の関係ではない。一方的に相手の言うことを聞く関係は相手を理解したことにならない。また、相手が相談に来るようになったからと言って、単純に喜んでいたのではいけない。理解したから相談に来たとは限らない。本当は相談ではなく、大体は、当方に解決してもらいたいか、当方が何を考えているか、何を言うか探りに来ているのである。その上で相手は対処の方法を考える。「上に政策あれば、下に対策あり」というのは役人と庶民の関係を表したわけだけでなく、私たちの日常でも起こっていることである。日本人上司と中国人部下の間でも起こっていることである。日本人がわかちないだけ。

縦割り社会では、それぞれの役割分担が決まっているづ役割に応じて、彼らは一所懸命仕事をしているのであり、自分の役割が分かると役割を超えて単独に業務を進めることはない。いつまでも相手と言い合いをして解決しないことがある。日本人はそれをもどかしく感じる。この場合は頃合をみて日本人が出てゆく必要がある。私は今、ここで「日本人が」という表現を使用したがこの日本人を「責任者」が、と置き換えても同じである。ただし、中国人社会では一般に責任者が出てくるケースは余程もめないとない。一般の人は責任者までたどり着けないからだ。下から相談が来るようになるには責任者と担当が相当意思疎通が出来て同じ「派閥」あるいは「仲間」にならないとなかなかその関係が上手くゆかない。

逆に言えば中国人の中でもあることだが。「相談に行かないとうるさいから」ということもあるし、「相談に行ってしかられても良いから、相手にやってもらいたい」から来ることもある。中国人(担当者)同士では解決不能ゆえ日本人(責任者)同士で解決して欲しいからやってくる。会社では多々発生する。それは、日本人同士がいない会社でも上に持ち上げたほうが、自分たちが苦労しないで済むからである。日本人と違って、上同士で解決して欲しいことも、直接的な表現で言ってこない。面子があるからである。ここまで見抜けなければいけない。見抜いても気が付かない振りをしていなければいけないことのほうが多い。気が付くと面子上、本人が本人を許せなくなり、会社を辞めざるを得なくなる。

私は知人から「あなたが言っているほど中国人はひどくない」「あなたは中国人を最初から、一定の枠にはめて考えているのではないか」と批判されるほうが嬉しいのである。逆に聞きたくない言葉は「中国でだまされた」とか「中国人にだまされた」または「中国社会と日本人社会あるいは日本の本社との関係でノイローゼになった」という言葉や事件に遭遇したくないからである。従ってこの本の中では、余り前向きの楽しいことばかりは書いて来ていない。私は希望の無い国では仕事をしない。会社が私を指名し、私か中国で仕事をしているのは、個人的な理由は勿論あるが、サラリーマンとしてただここに派遣されて仕事をしているだけではなく、この国には希望があり、日本の将来を憂う時、この国との関係をよくしてゆきたいからである。そのために書物にして、広く多数の人に中国を理解してもらいたいからである。

教師の現実と差別の実態

現在の、一般的教育状況は以上にのべてきたように、能力主義に基づく差別選別教育、とひとくちにくくり得るのであるが、次に、こうした一般的教育状況の中での解放教育はどうあるべきか、という問題を考えたいと思う。部落差別は、こうした教育体制のもとで相変らず、生なましく生きている。とくに高校にかいては、差別事件がほとんど日常化している。たとえば、七七年四月から起きた大阪・興国高校事件では生徒六人の逮捕者まで出すにいたった。同校では一年生狩りと称する集団リンチが伝統化していた。これは、三年生か二年生に命じて、新入生に暴力をふるうというものだが、教師はこれを校内治安の維持体系と見たてていたフシがある。その証拠に、常に教師は暴行を見て見ぬふりをし、被害者の一年生には「お前が悪いから」と説教し、逆に加害者の二年生、三年生には「ケガさせんようにしろよ」と忠告するだけだったようである。

大阪府では、七六年暮から七七年春にかけて十二の高校で、差別事件が起きている。これらはいずれも、明るみに出たものだけであり、その他表面化しないものを含めると、どれだけの数にのぼるか、想像もつか友い。表面化した事件を追跡してみてわかることは、差別事件を起した高校はいずれも職業高校、私立高校、定時制高校など、いわば低位にかかれ、そのように評価されているところばかりであること。一部進学エリート校の私学を除くと、私学、職業高は一部の進学エリートとスポーツエリート以外は、十把一からげで、低学力生徒として切り捨てられる。切り捨てられた生徒は、その不満と怒りのはけ口として、より低位とされる部分に対して、攻撃のホコ先を向けるのである。

すなわち、底辺部分における矛盾が深化して友加、解決点が見出せないときに、代償行為として部落差別や朝鮮人差別、あるいは障害者差別などの位相に、消極的もしくは積極的に乗りかかっていくのである。底辺部分の矛盾のはけ口として、被差別者をスケープゴードに仕立てあげるわけで、これを許すものとして、社会意識としての差別観念が存在することは、いまさらいうまでもないことである。高校進学率はいまや全国で九〇%を越え、東京、大阪などの大都市では九五%をオーバーし、事実上の全入状態に近づきつつある。にもかかわらず、高校教師はいまだに義務教育課程の教師とは異質のエリート意識をもち、「ついてこれる生徒だけついて来い」との姿勢を捨てようとしない。ここにもひとつの矛盾があることは否定できない。

つまり、ひと握りのエリート生徒に組みし、不十分な学力しか保障されることがないゆえに、荒れる生徒を切捨てるのは、どう考えても、たとえば事実上の全入に近い状況からみても、本質的とはいえない。論旨はいささかそれるが、最近、「高校義務化」ということが声高に叫ばれている。その意味は理解できるが、しかし、私は、義務化という言葉に、いささかこだわらずにはおれないのである。教育はあくまでも権利教育を、原点とすべきなのであり、中学で学校教育を能動的にやめていく子どもの権利はやはり、十分に留保すべきだと考えるからである。さらに、全入や義務化ということについて、もうひとつのこだわりがある。

それは、高校全入中高校義務化の論理(それ自体は理解できるのだ)が、高校多様化に手をかして来なかったか、という疑問である。全入や義務化を展望するならば、この点に関する精密な総括が必要だと思われるが、現時点にいたるまで、一度もそのような総括が行なわれた形跡がない。全入や義務化をロにすれば進歩的だとする一般的風潮は、やはり似而非であり、その気楽さはむしろ要注意であろう。さて、解放(同和)教育は、一般的にいえば長欠・不就学問題から出発し、学力保障、進路保障へと進んできたということができる。一九七七年五月、大阪市で開かれた部落解放研究全国集会の教育関係分科会では「長欠・不就学問題は基本的に解決された」と述べられていた。

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